なぜ政治家は顔で判断されるべきなのか?【中野剛志×適菜収】
「小林秀雄とは何か」中野剛志×適菜収 対談第2回
■政治家はなぜ「顔」で判断すべきなのか?
適菜:小林は、「政治とは技術である」と言ったわけですね。政治とは動いているものであり、イデオロギーで判断したり、計算できるようなものではないと。計算なら計算機でできる。でも、「常識」の働きが尊いのは、刻々と変化する対象に即して動くからだと小林は言っています。マキャベリもそれに近いことを語っていると思うんです。小林はマキャベリが空理空論を嫌ったのは、彼の深い人間理解が、政治を理論化・空想化させなかったと指摘していますね。
先日まで安倍晋三というホラ吹きが総理大臣をやっていましたが、一応自分で書いたということになっている『新しい国へ』という本の中で、「わたしが政治家を志したのは、ほかでもない、わたしがこうありたいと願う国をつくるためにこの道を選んだのだ」と述べています。これは保守的な政治理解の対極にある発想ですね。マイケル・オークショットは端的に「政治とは己の夢をかなえる手段ではない」と言いましたが、小林も理想は一番スローガンに堕し易い性質のものだと見抜いていました。
中野:そうです。
適菜:『小林秀雄の警告』でも書いたのですが、小林は人を「顔」で判断しました。近代的思考では、人を外面で判断するのは間違っていて、内面を見ろと言います。しかし、外面で人を判断できるのは、人類の歴史的経験、社会の共通認識から言っても否定することはできないでしょう。子供向けの漫画の悪役は悪そうな顔に描かれています。最先端の顔分析システムでもテロリストなどの顔の特徴を分析できることがわかっています。小林は「人間はおもてにみえるとおりのもの」だと言いました。「自分よりえらく見せようとしたって、利口そうに見せようとしたって、あるいは、もっと深く考えているんだって、いくら口で言ったって駄目なんだ。持っているものだけ、考えているだけのものがそのまま表に、顔つきにも文章にも表れるんだよ」(高見沢潤子『兄 小林秀雄との対話』)と。
政治家も顔で判断したほうがいい。こう言うと近代的思考に凝り固まった人の反発を買うかもしれません。「それなら美男美女が政治家をやればいいのか」とか「お前の顔はどうなんだ」とか。しかし、言葉はごまかすことはできるが顔はごまかせない。顔に表象されているものを見ろという話です。立ち居振る舞いや言葉の言い回しもそうです。
中野:ちょび髭とか生やして、まなじり吊り上げて怒鳴っているような顔には気をつけましょうとかですか(笑)。
適菜:一言で言うと品の問題だと思います。下品な人間はだめだということですね。新渡戸稲造は、人の性格は、その人間がなにも考えていないときに表れると言っています。偉そうにしてる奴は大勢いるが、そいつが礼服を着てきちんとしているときではなくて、浴衣姿だったり、ステッキを持って散歩をしているとき、ひょっと物を食っているときに、「あれはあんな人間である」とわかると。スローガンや高尚なことなんて誰でも言えるわけです。しかし、品位は隠すことができない。安倍が握り箸と迎え舌で飯を食っている姿を見れば、「あれはあんな人間である」とわかるはずなんですね。アメリカの犬だから犬食いなのだと。 小林の政治観もそうです。小林は「面(つら)」という言葉をよく使ったのですが、人を批判するときには「あいつは面がよくない」と。逆に褒めるときも、顔から褒めるんです。福田恆存という人は痩せた、鳥みたいな人でね、いい人相をしている。良心を持った鳥のような感じだと。
中野:もうそれを読んで以来、福田恆存の顔がほんと鳥にしか見えなくなっちゃった(笑)。
適菜:顔より言葉を重視するのが近代です。だから意識的に小林は言葉より顔を重視したわけです。近代により排除されたものがそこに表象していると。
中野:確かに。私も、丸山眞男の写真を見た時に、「ああ、なるほど。こういうことを書きそうな顔だ」と思いましたね。
それはね、政治に関係しているし、近代的な考え方が間違っているという話と同じなんです。政治というのは技術である。政治と文学はもちろん大いに違うんだけれども、ただ、この技術とか手段こそが大事なんだっていうところは共通している。よく「手段とかではなくて、どんな社会にしたいかを語ってくれ」みたいなことを皆言うわけですが、そういう発想自体が間違っている。私は「小林秀雄の思想はプラグマティズム(実用主義)」だと書いたんです。プラグマティズムは、「目的があって、その目的を達するために手段があるんだ」という考え方自体に懐疑的な思想です。。
例えば、理論というものは、実は、実際に実践することで世間や世の中をどういうものかを知るための手段なのです。知識とか理論とかが先に頭にあって、それを実現するために、手足としての政策などの手段があるということではないんです。手足を動かさないと世間がどうなっているのかという知識も理論も得られないというわけです。この場合、理論は、目的ではなく手段になっている。それがプラグマティズムの考え方なんです。小林はその考え方に非常に近い。
適菜:目的という発想もイデオロギーです。理性的に論理的に合理的に思考を続ければ正解にたどり着くのなら、その目的に向かって運動を始めればいいと考える。これが基本的な左翼の発想です。一方小林はイデオロギーは現実世界に触れていないと言うわけです。「この思想の材料となっている極めて不充分な抽象、民族だとか国家だとか階級だとかいう概念が、どんなに自ら自明性を広告しようと或は人々がこの広告にひっかかろうと、人間は嘗てそんなものを一度も確実に見た事はないという事実の方が遥かに自明である」(「Xへの手紙」)と。マキャベリについても「人間のさまざまな生態に準じて政治のさまざまな方法を説くのを読んでいると、政治とは彼にとって、殆ど生理学的なものだったというふうに見える。政治はイデオロギイではない。ある理論による設計でも組織でもない。臨機応変の判断であり、空想を交えぬ職人の自在な確実な智慧である」(「マキアヴェリについて」)。小林が言いたいのは、マキャベリが平和も自由も空想のうちにしかないことを知りながら、ニヒリズムに陥ることもなく、現実に立ち向かう精神を持っていたということですね。
中野:小林は政治は国民生活の管理術であるべきだとも言ってますけれど、これを今言うと、政治を卑屈に見てるような印象に見られてしまう。でもそれは全然違っていて、国民生活の手段とか管理術ということがいかに重要かということを小林は言っている。
この点に関して、小林が感動してるのは、江戸の儒学です。孔子を正確に理解しようとした伊藤仁斎とか荻生徂徠の古学、特に徂徠は「孔子様は、政治は、術だと言ってるんだ」というようなことをしきりと強調している。「政治は、しょせんは手段に過ぎない」というような言い方ではない。「政治は手段であるということを極めることがどれだけ大事か」ということ、これをしきりに小林は言っている。でも多分それも誤解されていて、政治を小ばかにしてるんだとか思われたり、あるいは、持って回ったひねったレトリックみたいに思われたりしているのかもしれない。しかし、これは文字通り素直に受けとるべきです。「政治は手段である、技術である」ということに小林は大変感銘を受けているんだ、ということですね。
その技術が文学でいうと「文体」にあたる。文体はいいけれども中身が伴ってないとか、そういうことはあり得ない。文体が悪いということは中身が悪いということです。先ほどの顔の話もそうなんですけど、形がすべてだ、ということです。スタイルとサブスタンスとは、きれいに分けられないのです。
文体というものが大事だということを、小林は若い頃からずっと書いているんですね。ではなぜこの文体っていうものが大事なのか。「様々なる意匠」に戻ってくるんですけど、結局、言葉というものがそもそもどういうものか、ということと密接不可分だということです。
適菜:小林は文学者にとってもっとも本質的なことは「トーンをこしらえること」だと言いました。チェーホフはどこを切り取ってもチェーホフですし、文体はだめだけど、一流の文学というのも考えにくい。音楽もそうですよね。結局は、フォーム、トーン、文体といったものを軽視してきたのが近代的思考なのです。